AW1話だけ見ました。
なるほどもっ先輩の配役が確かにちと辛い。それとは全然関係無く、小説をアニメにするとこうなるのかぁ、と改めて考えさせられます。自分は川原さんの商業作品がけっこう好きだし、「小説にできてアニメにはできないこと」をちょいと考えてみることにしました。
まぁつまり、アニメ版は若干の不満が残る感じだった、つーことなのですが……。
◆小説での強力な内面描写「独白」について◆
例えば小説は登場人物の心の内をいちいち書く事によって、その独特の思想や感情の動きで面白さを作ることが出来ます。
しかしアニメの場合、独白が効果的に効く場面というのがかなり限られていて、そこをはき違えたまま作るとコケます(コケる=ウン十年版権で莫大な利益をもたらすアニメーションになり得ない、の意)。
どういう場面が効果的なのかと言えば、ずばりコメディタッチ、笑えるシーンの独白、或いは戦闘シーンなど緊迫した場面での独白です。こういった場面ではアニメーションでも独白が効いてきますが、ことキャラクタ性を掘り下げていこうとするシーンでは、独白が効きにくいです 。
AWの原作冒頭では、ハルユキのキャラクタ性を強力に書いた独白があります。
くそ--現実なんて要るかという言葉に始まる一連の独白ですが、これはキャラクタ性を掘り下げるための独白、心中の吐露で、アニメ版ではまったく効果的に働いていなかったように思います。
つーかこれは川原さんが一貫して掲げているテーマめいたものに直結する(正に直結する)キーワードで、よほど重要視しなければならないものなのに、どうもそう見えない。
そこでこのシーンに関して、問題点を考えてみることにしました。
◆ハルユキ「くそ、現実なんかいるか!」について◆
動画の場合、見方が受動的であるために、ともすればあのスカッシュのシーンそのものすら流し見してしまいかねない。
つまりアニメーションの場合、あくまで画面という「ハコ」の中でハルユキが呟いているのを客観的に見ている、という感覚がまずある。そこから見ている側が感情移入していく為には2つの有効な手段があると思うので、とりあえず見終わってから書いたメモをまんま列挙してみます。
①いかにハルユキが苛立っているかを、より細密に描く
ちょっと想像してみると、例えばこれがハリウッドの映画だったりした場合、俳優は歯を噛みしめ、ぎゅっとラケットを握りしめてその苛立ちを表現するかも知れない(豚だけど……)。
役者の演技は人間の表情そのものであるから、複雑な内面を機能的に表現するのに向いている。
「苦しんでいるが期待もしている」
「怒っているが嬉しくもある」
そういう複雑な心の内を、役者は全身を使って表現できる。
ただしそんな複雑な心境を滲ませるには、それなりの演技力が必要になってくるのは言うまでもない。
ゆえに手練れの映画監督は、背景や光でもってその演技力を強力に補足しようとする。
ところでアニメーションはどうかと考えてみると、キャラクターがディフォルメされていればいるほど「内面の表層化」がむずかしくなってくる。
例え歯軋りしていても、書くべき線の本数が限定されていれば、顎をこわばらせることも、血管を浮き出させることも不可能だ。
そこで原作に忠実に「独白で内面を吐露する」という手段を今回AWでは使っているが、あまり有効だとは思えない。
小説でそれが有効だったのは、能動的に「読む」ことによって、既にある程度の感情移入がなされているからだと思う。
つまり「活字の意味そのものを理解しようとする行為」は、登場人物に接近しようとする行為に似ている。というより、三人称で書かれた小説は作品世界の神とも言うべき「著者の意見」が必ず滲んでいるために、著者が「現実はかくも苛立たしいものである」と1行でも書いてしまえば、それが作品世界と我々の間に存在する共通認識となり得る。
つまり小説の場合、「読む」は「脳内世界に展開される」と同義な為に、もともと登場人物との距離が近い。
重ねて、動画は「受け手」がより客観的な位置(画面の前、或いは外)にいるために、独白は有効になりにくい。
ではどうすればいいかというと、独白をほとんど捨てて、EVA以降流行った外連味たっぷりの表情の描写を、線を増やしてでもやるしかないと思う。
或いはハルユキのスカッシュプレイをもっと猟奇的に(まるで無限のリヴァイアスのキャラのように)描くか。
しかしそうしてしまうとハルユキ自体のキャラクタ性があらぬ方向に行ってしまう。
つまり、ハルユキの内面自体をディフォルメしてしまえばもっと動画に起こしやすくなるのだけど、それでは本末転倒であるということ。
考えてみればアニメはキャラクターが「記号的」であるがゆえに表現しやすく理解しやすいのだけど、我々受け手が持っているであろう共通認識の枠を超えた感情を表現しようとすると、要求される技巧的なレベルがとんでもなく上がってしまう。
②第三者を介入させて、その苛立ちが手に負えないことを「俯瞰で」認知させる
作画そのもので内面の表層化を計るのはちょっとむずかしそうなので、別のもっと簡単な手段について考えてみる。
「第三者の視点」を使うことだ。
この手法に関しては、富野監督が異常に上手い。
例えば、「くそ、現実なんかいるか!」という台詞をカミーユが言う所を想像すると、そこには必ず第三者がいる。
カミーユ
「現実なんて消えてなくなっちまえばいいんだ……。分かるでしょう!? クワトロ大尉!!」
クワトロ
「……」こうしてクワトロの冷たい視線を通じて、我々はカミーユの苛立ちの激しさを理解し、尚且つそのどうしようもなさに呆れ、半ば同情しさえする。
つまり富野(脚本家である星山も含めて)の場合独白を避けて、心情を表現したいキャラクタの前に第三者を立たせ、その第三者に「我々の目線」を受け持たせようとする。
画面に対してあくまで客観的な受け手も、こうして自分の分身とも言うべき「冷静な目線」を持った第三者が舞台に立ってくれれば、第三者との共感を通して知らずに主人公に牽かれていくものだ。
AWの場合、独白の次にチユリが出てきてこの役割を負おうとする。
しかし、小説ではあくまで独白が滑っていない状況でチユリの登場が有効的に生きてくる。アニメ版では少し厳しい。
更にここでチユリが初登場となってしまっているので、チユリの絵やキャラ性だけが強力に前に押し出されて、ハルの内面はけっこうどうでもよく思えてくる。
加えて弁当をぶっ飛ばすという重要なシーンに流れているために、
①苛立った感情
②素直になれない自分
が、ごっちゃになってハルの「現実は受け入れられないし、受け入れているやつは情弱」という苛立ちがうやむやになってしまう。
つまりやっぱり、独白が滑っている時点で、
フラウ・ボウ的ともいうべきチユリの第三者的機能が半減してしまっている。
部屋に閉じこもって半田ごてを弄くる縞パン一丁のアムロの暗いトーンみたいのものが、このシーンには決定的に足りない。
つーか、スカッシュをする、というのはそもそも校内ネットにおいて根暗な行為であるということが、世界観が壮大なだけに説明しきれていない(これもまた寸劇動画の弱点だ。「根暗少年!」とチユリに叫ばせてしまう簡略化が許されるなら、どんなに楽だったことだろう)。
そして何より、原作に忠実であるが故にチユリが「冷静な視点である」とは言い難い。
小説は独白が強力であったために、チユリの第三者的役割がほとんど中途半端でも第三者的であることに成功していた。
だから独白が効かないアニメの場合、チユリのキャラクタをもっと現実寄り(現実に生きていかねばならない我々寄り)にすればかなり機能的になるのだけど、「キャラクタ性を原作に忠実に固定してその魅力で押していかなければいけない」といった宿命を背負ったラノベ宣伝アニメでは、そういった行為は暴挙ととられかねないジレンマがある。
チユリを第三者に仕立て上げるというアニメ的伝統的な手法が、今回は「チユリに頼ってハルの内面を表現してしまおう」という打算的な逃げになってしまった。
つまりやっぱり、「独白」が持つ機能を、ここでは補完しきれていなかった。
◆1行の独白やが持つ意味の重み◆
多くのアニオタがそうであるように、自分もこうしていただけない作風に関する問題点を解き明かそうと試みるものですが、自分の場合小説の機能についてこそより重点をおいて考えようとするので、アニメをdisってしまう愚行はこの辺にしておこうと思いますが。自分がここで考えるのは、小説の中にある独白が持つ独特の客観性についてです。
読者の視点 登場人物の視点 第三者の視点 著者の視点
と分けて考えたときに、小説の独白には必ず著者の視点がついてきます。
例えば、
--俺は馬鹿だ……。
考えながら太郎は俯き、両手で顔を覆った。なぜなら花子を押し倒したそのときでさえ、まるで自分を奮い立たせることが出来なかったからだ。という一文があったとして(どんな例文やねん。しかしながら)、既にして、もうここで、著者が太郎に対してどういう印象を持っているかが窺えます。
つまり、「世の中にはそんなとき、難なくのりきり男たちがいるのだ」という知識を著者が持っていて、それと太郎を照らし合わせている。というか、照らし合わせざるを得ない。
著者が持つ常識や経験や思想が、いちいち太郎の印象を色づけていってしまう。それによって何ができるかというと、「第三者の視点」を第三者を介さずにして表現することができる、ということだと思うんですね。つまりもう、著者が第三者として介在していて、それを読者に「紹介」しているわけですから。
で、もしも対象となる読者層が決まっているのであれば、この著者視点を読者側に近付けていくことによって、感情移入しやすい小説が出来上がるんだと思います(著者視点が狂っていても、それはそれで面白いんですが、トリッキーである)。
では三人称小説に出てくる第三者が受け持つ機能というのは一体なんなのか、つー話になっちゃいますけど、長くなりそうだし脱線しかけてるので一端切ります。。
独白が意味を持ち得るということは、台詞が持つ機能も動画とはまたずれてくる、みたいなことを書ければ書いてみようかな、と思います。
まぁつまり、小説はプロットによって著者の思想を代弁する必要性が少なくて、動画はそうせざるを得ない、みたいな予感があります。
なぜかっちゅーと、小説は「キャラクタを見る目」として固定された地の文が、著者の思想を即席で代弁してしまうので、その後プロットがどうなろうが知ったこっちゃーないからです。